グラウンデッド・セオリーGrounded Theory
データの収集と分析を同時に進め、次に集めるデータをつくりつつある理論で選びながら、データから概念と理論を組み立てる方法。名乗る研究は多いが、何を指すかは論文ごとに違い、中核の手続きを守っているかの確認が要る。
どんな方法か:データから理論をつくる
グラウンデッド・セオリー(grounded theory)は、先に立てた仮説をデータで確かめるのではなく、集めたデータの中から概念とその関係を見つけ出し、理論を組み立てる方法である。考案者の一人である Glaser 本人は、Walsh et al. (2015, p. 593) の中で、データから理論を生み出すことだと一言でまとめている。Suddaby (2006, p. 633) によれば、この方法は Glaser & Strauss (1967) が、当時の社会研究の大半に浸透していた極端な実証主義への反発として開発したものである。その背景にあるのは、科学的な真理は観察という行為と、観察した人々の共同体がそれを意味づける中で生まれる合意の両方から生じる、という考え方だと Suddaby (同 p. 633) は説明する。
どんな問いに向くのか。Suddaby (2006, p. 634) は、グラウンデッド・セオリーはある問いには他の問いより向いている方法だと明言する。その目的は現実について真理を述べることではなく、人々が現実をどう解釈しているかについて述べることにあり、仮説の検証に使うべきではないという(同 p. 636)。Eisenhardt & Graebner (2007, p. 30) も、Glaser & Strauss (1967) の本来の関心は社会的行為者による意味の解釈にあったと書いている。
ただし、起源には意外な面もある。Walsh et al. (2015, p. 585) の Holton の節によれば、Glaser がこの方法を形づくり始めたのはコロンビア大学の博士課程で、その研究は量的なサーベイデータの二次分析だけにもとづいていた。同じ箇所で Holton は、そこには Lazarsfeld の帰納的な量的分析と Merton の理論構築の仕事の影響があったと多くの人が読んできた、とも書いている(同 p. 585)。「質的研究の代表格」という今日のイメージと、この出自との食い違いは、後で見る流派の議論につながっていく。
中核の考え方:継続的比較、理論的サンプリング、飽和
Suddaby (2006, p. 634) によれば、Glaser & Strauss (1967) の方法は二つの鍵となる概念の上に立っている。一つは継続的比較(constant comparison)で、データの収集と分析を同時に進めることを指す(同 p. 634)。もう一つは理論的サンプリング(theoretical sampling)で、次にどのデータを集めるかを、組み立てつつある理論によって決めることを指す(同 p. 634)。つまり、全部のデータを集め終えてから分析するのではなく、分析で浮かんだ概念を確かめ、ふくらませるのに必要な場面や人を、次に選びに行くのである。
理論的サンプリングの「理論的」は、統計的な代表性と対比される。Glaser & Strauss (1967) を引く Eisenhardt (1989, p. 537) は、事例は統計的な理由ではなく理論的な理由で選ばれると書き、無作為の選択は必要でもなければ望ましくもないとする。調査に入る構えについては、Walsh et al. (2015, p. 586) の Holton の節が Glaser (1978, p. 3) を引き、あらかじめ持ち込む考え、とくに論理的に演繹した仮説をできるだけ少なくして現場に入ることだと説明している。
では、データ集めはいつ終えるのか。Suddaby (2006, p. 636) は Strauss & Corbin (1998) を引き、比較を重ねてもカテゴリーに新しいものが加わらなくなる過程をカテゴリーの飽和(category saturation)と呼び、グラウンデッド・セオリーの主要な検証手段の一つと位置づける。飽和の判断基準について、Suddaby (同 p. 639) が引く Glaser & Strauss (1967, p. 62) は、データの経験的な限界、理論の統合と密度、分析者の理論的感受性(theoretical sensitivity)の組み合わせだとしている。飽和はインタビューの件数で決まるものではないということである。
こうした比較の行き着く先について、Suddaby (2006, p. 636) は Martin & Turner (1983) を引いて、データそのものより少し高い抽象度を見いだすことがグラウンデッド・セオリーの鍵だとする。Glaser 本人は Walsh et al. (2015, p. 594) で、グラウンデッド・セオリーを、何も知らずにデータに入り、中核となる変数がどのように絶えず解決されているかについての概念的な理論を携えて出てくるまでの一連の手順だと説明する。その成果の例として、Glaser は「Cautionary Control」「Supernormalizing」のように名前を付けたパターンを挙げている(同 p. 594)。
Glaser と Strauss の分かれ、「一般的な方法」という主張
グラウンデッド・セオリーは、考案者の二人のあいだで分かれた。Suddaby (2006, p. 638) は Locke (1996) を引き、Glaser はデータの予期しない解釈への創造性と開かれた姿勢を重んじ、Strauss(と共著者の Corbin)は形式的で規範的な分析手順を守ることを唱えるようになったと書く。Walsh et al. (2015, p. 585) の Holton の節は、Strauss と Corbin の共同作業が 1990 年の「how to」の教科書になり、それは質的研究の領域にとどまっているように見えたと述べたうえで、自分の読みでは Glaser (1978) がいまも基本の手引きだとする。
Walsh et al. (2015) の中心の主張は、グラウンデッド・セオリーは質的研究の方法に限られないというものである。ここで誰が何を言っているかは区別しておく必要がある。「古典的グラウンデッド・セオリーは質的研究の方法論ではなく、あらゆる種類のデータを使って理論を展開する一般的な方法論だ」とはっきり述べるのは、Glaser 本人ではなく Holton の節である(p. 585–586)。Glaser 本人の発言(p. 593)は、グラウンデッド・セオリーは単にデータの中に現れるパターンを発見することであり、あらゆるものにパターンがある、という一般性の強調が中心である。
量的データとの関係をさらに押し進めるのは、ほかの論者である。Bailyn は、量的データと質的データの区別はあまり意味がなく、それは言葉のデータと数値のデータの区別にすぎないと述べる(Walsh et al., 2015, p. 588)。Levina は、自分は量的な方法を使って現象の理解を深めたことがあるのに、理論構築研究というジャンルの期待に合わせるため、数値データに触れずに論文を書いたと明かしている(同 p. 592)。編者の Walsh は結論で、Glaser & Strauss (1967) の記述したグラウンデッド・セオリーはどんな種類のデータにも開かれており、技法や方法よりも研究のパラダイムに近いと自分は読む、とまとめている(同 p. 594)。
グラウンデッド・セオリーではないもの
Suddaby (2006) は、学術誌の編集者として投稿論文を読む中で目にした誤りを、「グラウンデッド・セオリーは…ではない」という形で整理した。見出しは "SIX COMMON MISCONCEPTIONS" だが(p. 634)、本文には "Grounded Theory Is Not…" で始まる節が七つある。著者はこの分類が網羅的だとは主張しておらず、自分の経験を反映したものだと断っている(同 p. 634)。以下、初心者がやりがちな誤りとして一つずつ見ていく。
第一は「文献を無視する言い訳ではない」("Grounded Theory Is Not an Excuse to Ignore the Literature", p. 634–635)。前もって持ち込む考えは「できるだけ少なく」(Walsh et al., 2015, p. 586)であって、ゼロではない。Suddaby (2006, p. 635) によれば、先行知識の本当の危険は視点が汚されることではなく、直接観察する代わりに、意識的にせよ無意識にせよ仮説の検証へと追い込まれることにある。それを防ぐ技法として Suddaby は、一つの実質領域に寄りかからず複数の領域から引くこと(例として Barley の技術と構造化の研究)、既存の概念化に影響されている可能性を絶えず意識し「見慣れたものを見慣れないものにする」こと、そして目標を広げすぎず、まったく新しい理論よりも既存理論の精緻化を狙うことを挙げる(同 p. 635)。Suddaby (2006, p. 640) が査読で探すのも、文献とデータと経験を組み合わせる腕前である。第二は「生データの提示ではない」("Grounded Theory Is Not Presentation of Raw Data", p. 635–636)。インタビューの発言を並べるだけでは足りず、先に見たとおり、データより一段高い抽象度の概念に引き上げることが求められる(同 p. 636)。
第三は「理論の検証でも、内容分析でも、語数の集計でもない」("Grounded Theory Is Not Theory Testing, Content Analysis, or Word Counts", p. 636–637)。Suddaby は質的方法と量的方法を組み合わせること自体はむしろ勧めるが、研究の問いと使う方法のあいだには一定の整合がなければならないとする(同 p. 636)。整合を欠いた混ぜ合わせを、Suddaby は Goulding (2002) の言葉で "methodological slurring" と呼ぶ(同 p. 636)。第四は「決まった技法をデータに型どおり当てはめることではない」("Grounded Theory Is Not Simply Routine Application of Formulaic Technique to Data", p. 637–638)。Suddaby はその誤りの一つとして、テキストデータをソフトウェアに流し込めば結果が出てくるという思い込みを挙げる(同 p. 638)。
第五は「完全ではない」("Grounded Theory Is Not Perfect", p. 638–639)。Suddaby は第四の節で、「飽和は25〜30件のインタビューを行えば達成される」といった硬直したルールを誤りの例に挙げており(p. 637–638)、この節では、飽和の判断があいまいで込み入っていることが、「25件のインタビュー」という実証主義への原理主義的な傾きを招くと書く(p. 639)。これに対して Suddaby が引くのが、飽和の判断はデータの限界、理論の統合と密度、分析者の理論的感受性の組み合わせだという Glaser & Strauss (1967, p. 62) の基準である(p. 639)。第六は「易しくない」("Grounded Theory Is Not Easy", p. 639–640)。Suddaby は、グラウンデッド・セオリーの研究が成長を要するものである理由の一部は、質的データのパターンを解釈する能力に研究者の個人差があることだと認める(同 p. 639)。また Rynes et al. (1999) を引き、組織の現場で過ごす時間が長い研究者ほど、自分の学びが大きかったと報告し、その研究も多く引用されると紹介している(同 p. 640)。
第七は「方法論がないことの言い訳ではない」("Grounded Theory Is Not an Excuse for the Absence of a Methodology", p. 640–641)。Suddaby は、投稿論文を読むと「グラウンデッド・セオリー」という語が「何でもあり」の意味に解釈されていたことがはっきりする場合があると書く(同 p. 640)。手順を書かずにこの語だけを掲げることが、最も根本的な誤りとして最後に置かれているのである。
懐疑的な読者の疑問に答える
第一の疑問は、「先行研究を読まずにまっさらな頭でデータに向かうのは、素朴すぎないか」というものである。Suddaby (2006) の答えは、そもそもグラウンデッド・セオリーは文献を無視する方法ではないというものだ(p. 634–635)。彼は Peirce のアブダクション(abduction)、つまり説明となる仮説を形づくる過程を引き、Strauss & Corbin (1998, p. 137) の言う「(あらゆる科学と同じく)帰納と演繹の相互作用」がこの方法に組み込まれているとする(同 p. 639)。避けるべきなのは知識を持つことではなく、演繹した仮説を先に固めてデータをそれに合わせることである(Walsh et al., 2015, p. 586)。
第二の疑問は、「結局は発言の引用を並べて、もっともらしい話をしているだけではないか」というものである。これには両論文ともはっきり否と答える。Suddaby (2006, p. 636) は生データの提示をグラウンデッド・セオリーから外し、データより高い抽象度を求める。Walsh et al. (2015, p. 586) の Holton の節も、経験的データを使って研究を「グラウンドする」だけでは、グラウンデッド・セオリーの研究にはならないとする。到達点は、先に見た「Cautionary Control」のような、名前を持つ概念的な理論である(同 p. 594)。
第三の疑問は、「データの読み方は研究者次第で、何でも言えてしまうのではないか」というものである。Suddaby (2006, p. 640) は、この語が「何でもあり」の意味で使われている投稿があることを自ら認めたうえで、それは方法の誤用だとする。歯止めになるのは、理論的サンプリングと継続的比較という中核の手続きを守ったことが読み手に分かるほど透明に方法を書き、データから主要なカテゴリーがどう生まれたかを評価できるようにすることである(同 p. 640)。一方で、方法の側も限界を認めている。パターンを読み取る力には研究者による個人差があり(Suddaby, 2006, p. 639)、Gioia 法の立場に立つ Corley は、同じ現場で同じ問いを立てた別の研究者が自分と同じグラウンデッド・モデルに行き着くとは考えないと述べている(Gehman et al., 2018, p. 296)。同じ席で Eisenhardt は、自分の事例で同じ問いを立てればほぼ同じ答えになると考えると反論しており、再現性の考え方は論者で割れている(同 p. 296)。
第四の疑問は、「この方法は実証主義なのか、解釈主義なのか」というものである。Suddaby (2006, p. 636) は、関心のある変数が個人の外に客観的に存在し測定できるとする実在論的な存在論と、人間が内なる知覚を外界に投げかけて現実を能動的につくるとする解釈主義的な存在論を対比する。そのうえで、グラウンデッド・セオリーは人々が現実をどう解釈するかについて述べる方法だとし、解釈主義の側に置く(同 p. 636)。ただし Suddaby は、Glaser & Strauss がこの方法で極端な経験主義と完全な相対主義のあいだの妥協を示したとも書いている(同 p. 634)。これに対して Walsh et al. (2015) は、グラウンデッド・セオリーをデータの種類を問わない一般的な方法論として描いており(p. 585–586, 594)、両者の力点は同じではない。
「グラウンデッド・セオリー」という語は何を指しているか
論文に「グラウンデッド・セオリーを用いた」と書いてあっても、それが上で見た方法を指しているとは限らない。Walsh et al. (2015, p. 586) の Holton の節は、この方法の一部をつまみ食いして他の方法や技法と組み合わせても、グラウンデッド・セオリーの研究にはならないと述べる。編者の Walsh は、査読者を満足させ掲載にこぎつけるために研究者が自分の研究を誤って表示し、誤ったラベルを貼るのをやめさせる手立てを問うている(同 p. 583–584)。Fernandez は、中核の原則を破りながらこの方法を名乗る研究者の多くは、読者を欺くためではなく、基本の書物を読んでいないからそうなるのだと見る(同 p. 587)。
隣接する方法も、この方法から語や手続きを借りている。Eisenhardt (1989, pp. 545–546) は、理論的サンプリング、理論的飽和、コーディング・データ収集・分析の重なり合いという考えを Glaser & Strauss (1967) から取り入れたと書き、同時に Glaser & Strauss は事例からの理論構築を擁護することに主眼があり、実際にどうやるかには重きを置かなかったとも評している。その Eisenhardt (1989, p. 546) は自分の手順を、Strauss と比べて実証主義的な見方をとるものと位置づけていた。Eisenhardt & Graebner (2007, p. 30) は、「グラウンデッド・セオリーによる理論構築」という語が複数の意味を持つことに対処するため、実際に Glaser & Strauss (1967) のやり方を使っているのでない限り、この語を避けるのがよいと提案している。
ところが、別の論者は同じ研究をグラウンデッド・セオリーの側に数える。Pratt (2009, p. 856) は、事例やエスノグラフィーの方法で集めたデータの分析にグラウンデッド・セオリーを用いることもできるとし、その例に Eisenhardt (1989) と Pratt (2000) を挙げている。Gioia et al. (2013, p. 20) は、Glaser & Strauss (1967) が「理論的サンプリング」「理論的飽和」と名づけたものを手順の中で使い、1次の分析を Strauss & Corbin (1998) のオープン・コーディングに、2次の分析をアクシャル・コーディングに「似たもの」と説明する。脚注では、研究の全過程を通じて Glaser & Strauss (1967) のガイドラインに従うよう努めているとも書く(同 p. 28, note 3)。Gioia は Gehman et al. (2018, p. 291) で、自分の方法論はグラウンデッド・セオリーを生み出すために設計されていると語り、Langley は同じ論文でグラウンデッド・セオリーをプロセスデータの七つの分析法の一つに数えている(同 p. 290)。
つまり、この語が論文で何を指しているかは、論文ごとに確かめる必要がある。Walsh et al. (2015, p. 582) も、Suddaby (2006) が「ではないもの」を示したのは当時として欠かせなかったが、さまざまな応用によってグラウンデッド・セオリー像がかなりぼやけた今は、それが「何であるか」を明らかにすることがいっそう急務だと書いている。
良い研究の見分け方
Suddaby (2006, p. 640) は、グラウンデッド・セオリーを名乗る論文を査読するときに最低限確かめることを具体的に書いている。第一に、データを生み出す過程で理論的サンプリングと継続的比較という中核の手続きに従ったことが分かるほど、方法が透明に書かれているか。第二に、データが主要な概念カテゴリーの生成にどう使われたかを、読み手が無理なく評価できるか(同 p. 640)。第三に、研究者の理論的感受性、すなわちデータの新しい解釈や予想外の解釈に開かれているか、文献とデータと経験を組み合わせる腕前、意味の微妙な違いへの注意が、論文から見て取れるか(同 p. 640)。
手本になる研究として、Suddaby (2006, pp. 640–641) は、組織変革の過程を管理者がどう解釈するかを調べた Isabella (1990) を、グラウンデッド・セオリーの方法論の傑出した模範例だと評する。同じ箇所では、チームの時間の使い方を調べた Gersick (1988) なども模範例として名前が挙がっている(同 p. 641)。
逆に、典型的な失敗も挙げられている。Pratt (2009, p. 858) は、帰納と演繹の戦略を不適切に混ぜる例として、理論を構築しようとしながら理論的・目的的なサンプリングではなく無作為サンプリングをすること、一つか二つの理論だけからデータのコードを作ることを挙げ、後者はグラウンデッド・セオリーの技法を使っているなら問題だとする。Walsh et al. (2015, p. 587) の Fernandez は、誤用の原因を、読んだものが限られていると危うい有能感が生まれることに見ている。読み手としては、手順の記述が「グラウンデッド・セオリーを用いた」の一言で済まされていないか、サンプリングがつくりつつある理論に導かれているか、結果が引用の羅列で終わらず概念に引き上げられているかを見ればよい。
主な文献
- Suddaby, R. (2006). From the editors: What grounded theory is not. Academy of Management Journal. DOI ↗学術誌の編集者として、投稿論文に見られるグラウンデッド・セオリーの誤解を「…ではない」の形で整理し、査読で確かめる点を示した。
- Walsh, I., Holton, J. A., Bailyn, L., Fernandez, W., Levina, N., & Glaser, B. (2015). What grounded theory is…a critically reflective conversation among scholars. Organizational Research Methods. DOI ↗2013年の学会シンポジウムを編集した対話。Glaser 本人を含む論者が、グラウンデッド・セオリーは質的研究に限られない一般的な方法だと論じる。
- Eisenhardt, K. M. (1989). Building theories from case study research. Academy of Management Review. DOI ↗理論的サンプリングや理論的飽和を Glaser & Strauss から取り入れつつ、事例からの理論構築の手順を示した。
- Eisenhardt, K. M., & Graebner, M. E. (2007). Theory building from cases: Opportunities and challenges. Academy of Management Journal. DOI ↗「グラウンデッド・セオリーによる理論構築」という語の多義性を指摘し、Glaser & Strauss のやり方を使うのでなければ語を避けるよう勧めた。
- Gioia, D. A., Corley, K. G., & Hamilton, A. L. (2013). Seeking qualitative rigor in inductive research: Notes on the Gioia methodology. Organizational Research Methods. DOI ↗理論的サンプリング・理論的飽和や、オープン・コーディングとアクシャル・コーディングに似た手順を借りた Gioia 法を解説した。
- Pratt, M. G. (2009). From the editors: For the lack of a boilerplate: Tips on writing up (and reviewing) qualitative research. Academy of Management Journal. DOI ↗質的研究の書き方と査読の助言。帰納と演繹の不適切な混在などの失敗を挙げ、グラウンデッド・セオリーの例に Eisenhardt (1989) を含めた。
- Gehman, J., Glaser, V. L., Eisenhardt, K. M., Gioia, D., Langley, A., & Corley, K. G. (2018). Finding theory–method fit: A comparison of three qualitative approaches to theory building. Journal of Management Inquiry. DOI ↗Gioia、Eisenhardt、Langley らの対話。再現性をめぐる Corley と Eisenhardt の意見の違いを含む。
批判と境界条件
第一の問題は、方法の境界がはっきりしないことである。上で見たとおり、Eisenhardt & Graebner (2007, p. 30) はこの語の多義性を理由に語そのものを避けることを勧め、Pratt (2009, p. 856) は Eisenhardt (1989) をグラウンデッド・セオリーの例に数え、Gioia et al. (2013, p. 20) は Glaser & Strauss の語と Strauss & Corbin の語をともに借りている。Walsh et al. (2015, p. 582) 自身が、応用が広がった結果としてグラウンデッド・セオリー像がぼやけたと認めている。「本来のグラウンデッド・セオリー」を誰の基準で決めるかについても、Glaser の側と Strauss & Corbin の側で重心が違い(Suddaby, 2006, p. 638)、読み手は論文がどちらの系譜に立つかを確かめる必要がある。
第二の問題は、この項目が主に依拠する二つの文献の根拠の性格である。Suddaby (2006, p. 634) の七つの誤りは、網羅的だとは主張しない、編集者としての経験の整理である。Walsh et al. (2015) は 2013 年の米国経営学会のパネル・シンポジウムから生まれたもので(p. 583)、著者ら自身、この形式は伝統的な研究論文の論証の進め方に従っておらず、あまり使われてこなかったと認めている(同 p. 583)。録音を書き起こしたうえで編集しており(同 p. 583)、発言の順序も分かりやすさのために多少並べ替えたと注記している(同 p. 595, note 1)。また、パネルには Glaser 本人が加わり、Holton は Glaser (1978) を基本の手引きとする立場を明言しており(同 p. 585)、Strauss & Corbin の立場から話す論者の節はない(節の見出しは p. 585–593)。したがって「量的データにも使える一般的な方法」という主張は、Glaser の系譜に立つ論者たちの見解として読むのが正確である。この項目が根拠にした文献には、Strauss & Corbin の側から書かれたものは含まれていない。
第三に、方法そのものの適用範囲にも限定がある。Suddaby (2006, p. 634) はこの方法をすべての問いに向くものとはしておらず、現実についての真理の主張や仮説の検証には使うべきでないとする(同 p. 636)。研究者の解釈力の個人差も認めており(同 p. 639)、同じ現場から同じモデルが得られるかについては、Corley と Eisenhardt の見解が分かれている(Gehman et al., 2018, p. 296)。これに対して Suddaby が示す応答は、中核の手続きを守ったことを読み手が確かめられるほど透明に書くこと(同 p. 640)と、現場での経験を積むこと(同 p. 640)であり、結論が誰にとっても同じになることを保証するものではない。
研究上の位置づけ
出典
- Suddaby (2006), Academy of Management Journal ↗
- Walsh et al. (2015), Organizational Research Methods ↗
- Eisenhardt (1989), Academy of Management Review ↗
- Eisenhardt & Graebner (2007), Academy of Management Journal ↗
- Gioia et al. (2013), Organizational Research Methods ↗
- Pratt (2009), Academy of Management Journal ↗
- Gehman et al. (2018), Journal of Management Inquiry ↗
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